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絵画の手品師

 どんな絵を描きたいかと問われれば、私は「誰も試みたことが無いイメージを描きたい」と応える。しかし、私は絵の具の質感に乏しい絵は嫌いである。油彩の魅力はCGなどには無い、絵の具の質感であろう。絵の具それ自体の放つ魅力、それを現すには、やはり描画方法は伝統的な方法が最適だ。

 

 私は最初、写実を目指していたが、自身の関心は必ずしも写実ではなく、純粋な視覚効果であることに気づいてから、写実とは異なる方向を目指すようになった。印象派も写実の分派であるし、ロココが写実かと言われると、実際はかなりデフォルメされている。古典派の画家の中には、形態を幾何学に還元しようという傾向が見られる。新古典主義のアングルはむしろ反写実だろう。私が好きな絵はバロック~ダリまでと非常に幅広い。クロード・モネに憧れて風景画を始め、カラヴァッジョに憧れて人物画を始めた。そしてバロック時代の錯覚的イリュージョニズムと20世紀のサルバドール・ダリの驚くべき空間表現に魅せられ、現在、自身の絵画空間を追求中である。登場するモチーフが写実的に見えても、絵画空間を構成する要素に過ぎず、場合によっては錯視だけで作品の全てを構築するかもしれない。しかし、「オプ・アート」かと言われると、一つのカテゴリーに厳密に区分されるわけでもないし、区分自体が意味が無いように思われる。私は単に自分の愉しみを追求している唯美主義者であるが、いわゆる「耽美派」とは趣を異にするだろう。

 

2016年以降、錯視の油彩化に取り組み、2016年の春、ようやく初の「動く錯視」の油彩画が完成しつつある。昔からだまし絵や錯視が大好きなので、錯視の油彩へ辿り着いたのは、自分にとっては何の不思議もない。しかし、コンピュータ上で可能でも、油彩画で可能にするにはかなり強力な錯視を作らなければならない。大本命たる風景画と普段はあまりやらない(と思う。理由はモデル代が・・・泣)人物画で現在、錯視画を描いていて、公募展に出品予定である。今のところ静物画でそれが可能かどうかはわからない。キャンバスの大きさも小さすぎても錯視は生じにくいし、大きすぎてもおそらく生じないと予想しているが、大きさの限界は試さないとわからない。周辺視の錯視の場合、コンピューターのモニターより遥かに大画面に印刷したところ、より強力な錯視量が得られた例を聞いている。今のところ10号~20号あたりがやりやすいのではないかと考えている。 現在描いている絵はM12号である。動く錯視に限らず、点滅錯視、「錯視」というのかどうかはわからないがトロンプルイユや不可能図形、多重イメージを展開していくつもりであるが、当面は「動く錯視」に専念しようと思う。

 

「錯視がなぜ生じるのか」と質問されても、「よく解らない」と私は応えるだろう。錯視が全く生じない人もいるし、見える見えないで、脳はいずれも正常だからだ。研究者の間でも、錯視が生じない場合は未解明で、現在研究中のようである。錯視が生じる場合、原因はおそらく、眼球の形態と補正のためのサッカード運動、色の知覚速度差が原因なのだろうが、今のところ体系的な数理モデルを私は持っていない。だから誰かに教えることはできない。簡単な数理モデルを開発したら錯視を大量に作れる可能性があるが、私は現在、開発に必要な数学を未修得である。眼球は球体なので、球体上の幾何学と光と波長に関する物理学が有用ではないかと考えているが、難解なリーマン幾何学が必要かもしれない。アインシュタインの一般相対性理論に使われる数学である。最終的には、眼球運動をランダムウォークモデルで記述して、数値化された色彩の最適な配列を求めることで、簡単に強力な錯視を作り放題にできると考えているが、一体いつのことになるかは全く不明である。

 

私は純粋すぎるほど視覚の人であって、全くといっていいほど感性の人ではないので、視覚の驚くべきイメージをひたすら追求しようと思う。目指すは絵画の手品師だ。文学も歴史も、私には殆ど何ももたらさなかった。私は全くといっていいほど価値の裁定者ではなかった。美学や価値判断論争は面倒くさいし、個人の自由だと考えているので御免である。私に大きな影響を与えたのは科学である。少年時代、他は駄目だったのに、なぜか理科だけは得意だった。単に面白いことが好きだったからだろう。科学の他、手品が好きであるが、量子力学では手品のような現象がごく普通である。ミクロの世界では面白いことに、日常の常識が全く通用せず、起こる現象は確率的である。ミクロの世界で起こる現象が、なぜマクロの世界では殆ど見られなくなってしまうのだろう。何らかの作用で打ち消し合ってしまうのだろうか?私は物理学を専門に学んだことはないが、仮に人生をもう一度体験できるのなら、間違いなく量子物理学をやっていると思う。私が大好きな不思議な現象が普通だからだ。常識から考えると無茶苦茶な発想が物理学者の間では飛び交っていて、それを数学を使って証明し、実証する。そして、数年後、あるいは数十年後に実用化される。物理学者は実に面白い人種だ。現代社会が機能するのは物理学者のおかげだが、殆どの人は日常生活においてそれを意識することは無い。量子力学が無ければ、半導体やトランジスタも発明されなかったし、コンピュータで様々な機器をコントロールなんてことは想像もできなかっただろう。確率的で、一見すると無茶苦茶な現象(重ね合わせ、エンタングルメント、トンネル効果など)が実用化されるとは実に面白い。では、なぜそちらに進まなかったのか。単に知らなかったから、別の道に行っただけである。私にできることは残念ながら絵を描くことだけである。物理学者のように面白いことを体験することはできない。だから「錯視」に注目したのだ。絵を描く人は結局、少年少女時代の思い出がイメージに影響を与えるのかもしれない。私の追求するテーマは変わっているかもしれないが、単に私が少年時代の夢に戻っただけの話である。

 

私は科学に傾倒していながら、なぜ無神論者でないのか。理由はわからない。法則が先か、物質が先かと言われれば、アインシュタインのE=mc^2により、法則が先であると応える。法則が先でなければ、たった一つの決まった法則に従う必要は無いし、サイコロを振るように物理的に出鱈目な現象が日常的に多々起きるべきである。神が存在しても物理現象に不都合は無い。神はおそらく、物理学の超弦理論でいう他の次元にいらっしゃり、必ずしも人間そっくりな姿をしているとは限らない。もしかしたら科学と宗教では呼び名が違うだけかもしれない。私は思想家ではないので、神の存在の有無については議論しない。不毛である。存在しても存在しなくても見ることはできない。死後の世界があれば、別の次元で確認できるかもしれない。

 

私は純粋な視覚芸術を創るだけであり、聖書やギリシャ神話の世界を取り上げても、何か思想を語っているわけではない。

私は唯美主義者である。有用なものは物理であれ、数学であれ何でも採り入れる。ただそれだけである。

ジャグリング(習作) 油彩

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